くろもちです。

たまにはちょっと皆さんと考えることができる内容も。
ということで、今回は掲題。

牌に愛された子、については
以前こんな記事を書きました。

なんか久しぶりにシンプルなタイトルですね。

今回は日本語の主述関係から
この表現を考えてみたいと思います。

牌に愛されるということはつまり
牌が愛するということ、ですね。

つまり咲-Saki-世界の牌は自我を持っているんだよ!
Ω ΩΩ< な、なんだってー!!

言いたいことは以上だったのですが
それだけではあれなので…。

咲-Saki-の能力や闘牌を考えるに辺り
妄想を繰り広げておりますと
牌が動いているのでは?という疑問が浮かんできます。

現実の麻雀では洗牌を行い山をセットした段階で
牌の位置が確定します。

それでは咲-Saki-世界はどうなのでしょう?

①現実世界同様山セットの段階で位置が確定し不動
②闘牌中も牌は動く

もちろん牌が動いてしまうと
現実の麻雀と照らしあわせて考える事ができなくなってしまいます。

この②が非常に微妙なわけですよね。
正直②であった場合、それは麻雀なのかどうか…。

しかし…。です。
①なのであれば、全ての牌をオープンにしても
同様の結果が得られるはずです。

作中での能力分析において
龍門渕透華の麻雀に関しての探究心と
牌に愛された子である天江衣。
この2人が揃っているにも関わらず
その詳細が明かされていないことから考えると
おそらくは、ですが
上記のような分析は行われていないように思われます。

それは何故か?と考えると
牌をフルオープンにした場合異なる結果となるから
と考えるのが自然に思います。

となると…。②もあり得るか…?

ここで持ちだされるのが観察者効果ですかね。
観察する行為が観察された結果に影響を及ぼす、という。

ふんふむ。

いまのところわたしは②は無い
という立場で咲-Saki-を見ています。

ということで①についてもう少し
考えを進めてみます。

能力を持つもの同士が同卓している場合
その牌の位置はどのように決定するのか。

ちょくちょく言われる「支配」という表現。

現状は、その「支配力」が高い方に有利に
牌がセットされているように思われます。

ここで冒頭に立ち返りまして…。
牌がセットされている、のではなく
牌が配牌の時点でその位置に動く
という考え方もできるのかな、と。

つまりは
より牌に愛された子、に有利な位置で確定する。

牌が自我を持ってあるべき位置に動くと考えると
咲-Saki-5巻で衣が藤田プロに指摘された
お前は麻雀を打たされている、という表現についても
解釈が可能かなと思ったのです。

一体、天江衣は誰に麻雀を打たされていたのか。
答えは、牌な訳です!
Ω ΩΩ< な、なんだってー!!

しかしこの指摘、そして牌に愛されたという表現についても
咲-Saki-世界の藤田プロをどのように捉えるか
である程度考え方も変わると思います。

わたしは藤田プロのことはさほど嫌いではありませんが
こちらの藤田プロ個別記事にも書いた通り
彼女の麻雀に関しての解説や考え方については
そのまままともに捉えて良いもの、と考えています。

つまり牌が自我を持ち、自らの位置を確定しているとなると
天江衣のみならず牌に愛された子達
そして同卓している子達も含め
全員が牌に麻雀を打たされていることになってしまいますね。

そう考えると…。
その「牌による支配」を打ち破るのは…。
原村和ということになるのでしょう。


さて、ここまで牌に愛された子の
叙述的な部分で考えを進めてきた訳ですが…。

日本語には比喩表現がありますね。
また二次表現ではちょっと違う意味を持ってしまいますが
擬人化表現というものもあります。

スポーツ実況とかでもよく聞きますね。
例えばゴルフ。

芝に嫌われた。
風に嫌われた。

当然芝も風も自我は持っておりません。

(まるで)芝に嫌われた(かのようだ)。
(まるで)風に嫌われた(かのようだ)。

ということですよね。


(まるで)牌に愛された(かのような)子。


…。
牌が自我を持っていなくても
この表現は成立してるわけです。

あっれー?

…。

正直途中まではいけるかもと思っていたのです…。
駄目でしたね。

と、いうことでなんとなくありそうだけど
その実何も意味が無い考察風妄想記事でございました。


ですが

牌の位置が確定するタイミングはいつか?
牌は動くのか?

という点については
これからもわたし達が妄想してしまう部分だと思います。

この部分についての
皆さんの考えも聞いてみたいなあと思います。

というところで今回は以上!

カン!